高級ブランド茶・宇治茶が日本トップクラスになった理由とは?

日本に銘茶は多くありますが、“高級となると真っ先に思い浮かぶ宇治茶。その一大産地である南山城地域は、煎茶発祥の地であり、今も最高峰のブランド茶をつくり続けています。昔も今も全国に名が知られる宇治茶の歴史をひもとき、おいしさの秘密に迫ります。

山城国宇治之里茶園之風景
「山城国宇治之里茶園之風景」2代目歌川国貞の絵にも宇治の茶摘みの様子が生き生きと描かれている。(写真提供:宇治市歴史資料館)
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横出 洋二さん

ふるさとミュージアム山城 京都府立山城郷土資料館

山城郷土資料館は、南山城地方の特色ある歴史と文化を、考古・歴史・民俗の視点から調査研究し、その成果を体系的に展示・公開している。

【住所】京都府木津川市山城町上狛千両岩
【電話】0774-86-5199
【開館時間】 9:00〜16:30
【休館日】月曜(祝日は開館、翌日休館)、年末年始(12/28〜1/4)
【観覧金】〈常設展・企画展〉大人200円、小・中学生50円

平安時代から続くお茶の歴史。宇治はでの時代でも名産地だった

宇治市を中心とした京都府南山城地域には独特な風景が広がっています。山間部には緑の茶畑がどこまでも続き、街中には、茶園や茶問屋さんなど茶業に関わる看板が目について、ここが茶業とともに生きる地域ということを実感することができます。

お茶の歴史をひもとくと、平安時代にお茶はすでに飲用されていて、鎌倉時代に臨済宗の僧、栄西(えいさい)によって抹茶が伝わり、喫茶の風習が広まりました。その後、茶の湯が隆盛し、千利休(せんのりきゅう)によって佗茶(わびちゃ)が完成しました。

その後、蒸した茶葉を焙炉(ほいろ)の上で揉んだ宇治製法の煎茶が生み出され、江戸で大人気を博しました。

2代目歌川国貞が全国の名所の風景を描いた浮世絵にも宇治の茶畑があり、宇治の地がすでに全国でも有数の茶どころ、茶の産地であったことがうかがい知れます。

しかし、京都で最初からすぐれたお茶がつくられたわけではありませんでした。では、どうしてここまで高品質のお茶をつくるに至ったのでしょうか?

「宇治をはじめとする南山城はまさしく、お茶とともに生きてきた歴史がありますが、最高峰のお茶をつくることができるようになったのは、間違いなく“人の力がそこにあったからなのです」

最高峰のお茶をつくった人々の技と信念

最高峰のお茶を生み出した人の力とはどんなものがあったのでしょうか?

「まず、宇治田原町の茶業家の永谷宗円(ながたにそうえん)の力が挙げられます。蒸した茶葉を焙炉で乾燥させる煎茶製法を最初に編み出し、味よし、香りよし、色よしの煎茶が生まれました」

次に市井(しせい)の人々の力が宇治の茶づくりを支えました。ここで活躍したのが、摘子、焙炉師と呼ばれる人々です。宇治をはじめ南山城地域の茶農家では、5月になると茶摘みを専門にする摘子や、生茶葉の蒸しから揉み、乾燥を行なって荒茶まで仕上げる焙炉師たちがやってきて、日頃静かな南山城地域も大勢の人で賑わったといいます。

「焙炉師の腕が茶のできを左右するので、腕のよい焙炉師は優遇されました。優秀な人を招くため、茶農家は食事や待遇に非常に気を使っていたようです。焙炉師も摘子も上等・中等・下等にランクが分けられ、賃金もそれに応じて支払われました」

その後、荒茶は茶問屋が買取り、茶撰(ちゃよ)りという細かい選別を行ないますが、ここで活躍したのが、撰子といわれる近隣の村の女性たちでした。

しかし大正期以降、茶摘みも製茶も、機械を取り入れるようになり、焙炉師や摘子、ほどなく撰子も姿を消していきました。

「しかし、製茶において茶葉の温度や水分量、香りなどは人の手の感覚や嗅覚で確かめながら機械調整するため、伝統の焙炉師の技は現代にも生き続けています」

摘子の早技
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摘子の早技
焙炉師の情熱
焙炉師の情熱
撰子の目利き
撰子の目利き

伝説の茶農家に聞いた宇治茶の今。最高峰であり続けるために

下岡 久五郎さん
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匠の館(京都府茶業会議所)館長・宇治茶と古老柿の久五郎茶園園主
下岡 久五郎さん

しもおかきゅうごろう/1941年京都府宇治田原町生まれ。農業高校卒業後いろいろな農業畜産業を志すが家業のお茶農家を引継ぐ。1966年久五郎茶園を設立。1974年、農林大臣賞受賞。その後合計9回受賞。2006年黄綬褒章受章、2007年天皇杯受賞、2012年旭日雙光章受章。

お茶づくりで農林水産大臣賞、黄綬褒章、天皇杯まで受賞した、まさに伝説の茶農家、下岡久五郎さん。今までのご苦労や宇治茶への思い、そして、これからについて語っていただきました。

下岡さんは農業高校卒業後、畜産でハムをつくる、あるいはさまざまな野菜づくりに挑戦するなど、いろいろな生産の仕事を模索してきたそうです。

「気候風土というものがそれぞれの土地にありますが、ここの地域は険しい山間部にあって、昼夜の寒暖差が大きく、お茶の栽培に適した気候と土壌条件を兼ね備えている、まさに宇治田原はお茶づくりのためにあるような場所やと実感しました」

お茶づくりを手掛けていくうちに、下岡さん自身のお茶への探求心が広がり、品質の改善、栽培方法などの研究を深めていきました。

宇治茶の歴史は常にチャレンジの連続だと下岡さんは言います。16世紀には、宇治の地で茶畑に覆いをかけて日光を遮る「覆下(おおいした)栽培」が開発され、最高級の抹茶用原料のてん茶が生み出されます。その後、18世紀になると宇治田原町湯屋谷の永谷宗円が「宇治製法」を考案し、色、味、香りともに素晴らしい煎茶を誕生させます。その後、「覆下栽培」と「宇治製法」を組合せて、甘み豊かな玉露が生まれました。

「宇治茶は先人たちがさらに上質なお茶を、もっとおいしいお茶を求めて、ここまでやってきたんです。私もその姿勢を受け継ぎたいとずっと考えています」

下岡さんが目指すのは「お客さんが口にして感動してもらえるようなお茶」だと言います。実は自分の実力を知るために、初めて出品したお茶が、なんと大臣賞を受賞するほどの才能の持ち主。

「そやけど1回取ったくらいじゃダメやと言われて……。そこから次々に出品しました(笑)」

合計9回の農林水産大臣賞を受賞し、ついには黄綬褒章、天皇杯まで受賞するに至りました。

「茶農家を始めて60年。毎年1回の収穫として60回続けてきたわけやけど、茶づくりは奥が深い。毎年、毎年、気候条件も違うし、収穫するまではずっと気持ちが張り詰めていますね」

土地にあった品種、標高などの立地、気象条件、土づくりなど下岡さんは、茶づくりに必要なことは日々、研鑽だと言います。

お茶写真

今、下岡さんの茶畑では、品種の特性や栽培地の標高、条件などを考えて、標高200〜450メートルの異なる場所に茶畑をつくり、煎茶、玉露、てん茶など11品種を栽培しています。収穫時期をずらすなど工夫をして、短い茶の収穫好適期を拡大し、高品質なお茶を安定的に供給するようにしています。

「お茶の良し悪しは茶畑を見ればわかります。茶葉を撫でると、お茶の木がどう思っているのかわかりますよ。よいお茶はほんまにべっぴんさんなんです(笑)」

下岡さんは、世界遺産である日本料理、特に繊細な京都の料理に通じる、素材の味を最大限に活かす味わいが宇治茶の特長だと言い、大切にお茶を育てます。また、後進の育成にも力を入れています。

「永谷宗円は煎茶の技法を誰にでも教えたそうで、“このお茶を天下に広めたまえというポリシーがあったと思うんです。私自身、茶づくりの文化を受け継ぐ若手には、伝えられることはなんでも伝えていきたいと思っています。茶づくりは真剣勝負であり、ほんまに一生勉強です」

お茶づくりの伝説的存在であっても、さらなる高みを目指して研鑚に励む。この姿勢こそが、宇治茶の品質を常に最高峰へと導いていくのでしょう。

おわりに

今も昔も、宇治茶はずっと最高峰のブランドであり続けてきました。その陰には、お茶づくりに関わるすべての人々が、切磋琢磨し、よりよいものをと励む思いがありました。そしてその思いは、現代にも引き継がれています。

一杯のお茶が秘めた人々の歴史を知ると、よりお茶がおいしく感じられるようです。

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(文・郡麻江)

planmake_hagiri

取材・文=羽切友希
はぎりゆき●月刊『茶の間』編集部員。ちびまる子ちゃんが好きな静岡県出身。小さい頃は茶畑の近くで育ち、茶畑を駆け抜けたのはよき思い出。お茶はやっぱり渋めが好き。