何度中止されても蘇る!1100年続く疫病退散を願う京都・祇園祭

山鉾巡行が人々を魅了する八坂神社の祭礼・祇園祭。2020年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、一部の神事のみの催行となりますが、実は過去にも中止されたことがあります。何度も蘇ってきた祇園祭の意義と歴史を、民俗学博士の八木透先生に伺いました。

洛中洛外図屏風
洛中洛外図屏風右隻部分 (国宝 狩野永徳筆 米沢市上杉博物館蔵)

怨霊が天災や疫病を引き起こす?
祇園祭のルーツはたたりを鎮めるための神事だった!

かつて、京の都の春から夏にかけては、食中毒や梅雨による川の氾濫などで疫病が流行(はや)りやすい時期でした。そして当時は、天災と疫病の流行は一体で、無念の死を遂げた死者の霊魂「御霊(ごりょう)」のたたりだと考えられました。典型的な御霊として恐れられたのは、都の外に追放されて亡くなった桓武天皇の弟の早良(さわら)親王(祟道(すどう)天皇)や菅原道真などです。そうした御霊の荒ぶる霊を歓待して鎮めるため、貞観(じょうがん)5年(863)、朝廷主催の「御霊会(ごりょうえ)」が神泉苑で盛大に行なわれました。その6年後、都に疫病が流行ったため、再び神泉苑で御霊会がもたれ、全国66ヵ国の矛(ほこ)を立て、祇園社より神輿を送り、神事が執り行なわれました。おそらく平安時代後期頃には、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る社殿として「祇園社(今の八坂神社)」が成立し、「祇園御霊会」が年中行事化していったといわれます。祇園祭のルーツがここにあります。

牛頭天王というのは、インドのお釈迦様の生誕地に因む「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の守護神です。神仏習合により今はスサノヲノミコトとして八坂神社に祀られていますが、疫神(えきがみ)として旅をする怖い神様でもありました。あるとき牛頭天王(武塔天神)が旅の途中、裕福な巨旦将来(こたんしょうらい)の家に宿を求めますが断られます。一方、弟の蘇民(そみん)将来は、貧しいながらも牛頭天王を泊めてもてなしました。牛頭天王は、旅を終えて戻ってきたとき、疫病から身を守る護符として茅(ちがや)を腰に巻くよう、蘇民将来に教えます。やがて疫病が流行り、巨旦の一族は滅び、蘇民の一族は護符により生き延びました。これは『備後国風土記(びんごのくにふどき)』逸文などに伝わる伝承ですが、「茅(ち)の輪」や祇園祭の粽(ちまき)のルーツとなっています。

囃し立てて疫神を喜ばす!
祇園社と町衆が互いに盛り立てて、祭はより派手に、華やかに!

平安時代の御霊会では、今と同様に三基の神輿(みこし)が市中の御旅所(おたびしょ)へ巡行するという形式がすでに成立していました。

文献上、祇園祭に「鉾(ほこ)」が登場するのは14世紀初めですが、これは現在の山鉾の「鉾」とは違い、「鉾衆」と呼ばれた芸能集団が、武器である鉾を飾り立て、鉦(かね)・笛・太鼓などとともに周囲で歌舞を演じるものでした。「風流囃子物(ふりゅうはやしもの)」と呼ばれ、神輿とともに町を練り歩き、疫神を慰撫(いぶ)するために賑やかに囃(はや)し立てました。

現在と同様の「山」や「鉾」が登場するのは南北朝時代から室町時代にかけてと考えられています。「山」は趣向をこらし、人目をひく造り物です。山なので常緑樹を立て、そこでひとつのシーンが見世物として演じられました。一方、「鉾」はアンテナのように長い鉾を立てた山車(だし)で、神輿に先導して道中の疫神を集める役割があったと考えられます。

山や鉾は京の町衆の成長と経済力とともに華美になっていき、15世紀の初め頃には、今とあまり変わらないかたちで山鉾が巡行していました。応仁の乱以前の史料では、55基の山鉾のうち「なぎなた鉾」「にわとり鉾」などの名も見られます。

応仁の乱でいっとき祇園祭は途絶えますが、明応9年(1500)に復活。その頃には山鉾巡行順を決める「くじ取り」が行なわれ、長刀鉾が例外として先頭を行くルールもありました。町衆が疫病退散の願いとともに神事を盛り上げてきた祇園祭は、以後500年間、ほぼ同様のかたちで行なわれてきているのです。

洛中洛外図屏風

16世紀に描かれたこの屏風絵には、鴨川を渡る三基の神輿と山鉾など、今とあまり変わらない祭の姿がある。祇園祭の歴史を知るうえで興味深い資料。

狩野永徳筆
(国宝 狩野永徳筆/部分 米沢市上杉博物館蔵)
洛中洛外図屏風の説明
洛中洛外図屏風の説明

幾度の困難を超えて、なお受け継がれる祭の姿とは…。
疫病退散の願いが人々を動かす

八坂神社
八坂神社

祇園祭は応仁の乱で30年間中止されました。本能寺の変が起きた天正10年(1582)には11月に延期。江戸時代にも将軍や上皇の死で延期され、蛤御門(はまぐりごもん)の変では、山鉾町一体が火災に遭い影響を受けました。明治時代のコレラ流行でも何度か延期され、戦中戦後の5年間も巡行が中止されています。しかし幾多の困難を乗り越え、祇園祭は祇園社とそれを支える町衆の心意気で今に続き、今後も継承されていくことでしょう。

現代の祇園祭は、7月1日から1ヵ月間にわたり祭事が行なわれます。今年は神輿や山鉾の巡行が中止となりましたが、本来なら、祭は「前祭(さきまつり)」と「後祭(あとまつり)」に分かれ、山鉾巡行と神幸祭、還幸祭が行なわれます。

祇園祭で八坂神社や各山鉾町で授与される粽(ちまき)は、玄関先に掛ける厄除けの護符。そこに書かれる「蘇民将来子孫也」の文言には「わが家は蘇民将来の子孫なので疫神様は避けてください」という意味があります。粽は「茅(ち)巻き」であり、粽の上部を束ねる紐に茅(ちがや)が使われています。

6月末になると京都では多くの神社に茅の輪が設置されますが、祇園祭でも今年度に限り、祇園祭の1ヵ月間八坂神社境内の疫神社の鳥居に茅の輪が舗設され、疫病退散の願いを込めて神事が行なわれます。

今年は例年のように祭を楽しむことはできませんが、だからこそ祭本来の意味を改めて考えてみたいものです。

八木透

ナビゲーター・八木透先生

民俗学者。京都市生まれの京都育ちで、生粋の京都人。佛教大学歴史学部教授。文学博士。世界鬼学会会長、京都府および京都市文化財保護審議会委員、京都民俗学会理事・事務局長、祇園祭綾傘鉾保存会理事、ほか多数歴任。毎年、祇園祭山鉾巡行および五山送り火には実況解説役としてテレビ出演している。

観光客で賑わう祇園祭ですが、そこには楽しいだけじゃない、祭を受け継いできた人々の強い願いがあります。例年とは違う祇園祭になってしまう今だからこそ、改めてその意味を知ることで、祭に込められた人々の願いが、胸に迫ってきます。

(文・中岡ひろみ)

 

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企画・構成=羽切友希
はぎりゆき●月刊『茶の間』編集部員。ちびまる子ちゃんが好きな静岡県出身。小さい頃は茶畑の近くで育ち、茶畑を駆け抜けたのはよき思い出。お茶はやっぱり渋めが好き。